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津軽三味線





写真提供:大竹あゆみさん

 この私の三味線は、女優としてデビューしてからずっと仕事の恩師であり、津軽三味線を勧めて下さった今は亡き(写真家)大竹省二先生から相談していただいて、
「ご主人の作った三味線を使ったら他の三味線は使えなくなると評判だから」と、三津五郎先生が直接依頼して下さいました。
ご主人手作りの特注です。

大竹先生のご友人も同じ三味線屋さんを推薦してくれていたので地図を書いていただき訪ねていきました。

「よくいらっしゃいましたね、
お話しは伺っています!」
ご主人はそう云うと奥から二本の丸太の棒を両手に持ち、
「三味線は棹が一番重要です」一方を差し出し
「見てください!この紅木は滅多に出ない最高級品です。
残念ですがこれは使えません、
何年もお待ちになっているある家元にお作りするものです。」そして
もう一方の紅木の年輪を比較して「少し幅が有りますね。(最高級の)こちらには及びませんが決して悪い物ではありません。
こちらの紅木で是非、私に作らせて頂けませんか?時間はかかりますが精魂込めて作らせていただきます。」

その時、私にはまだ「三味線を習いたい」と云う強い気持ちは無く、

「今はまだ、三味線を習っていないので、時間は大丈夫です。」

「手も指も長いしきっとお上手になりますよ。」と話しながら、準備していたと思われる三味線を差し出して、
「出来上がるまで、この三味線をお貸ししますので、是非お始めになってください」と、棹を掴んだ時の私の手の大きさや腕の長さを計りました。

「大きさは津軽三味線の標準ですね。
今は'標準'が主流です。」

三味線を構えたときのバランスを調節したいので、何度かお店に来ていただきます。
先生には私の方から連絡しますので、

後は私にお任せ下さい!!」

その後、
何度かお店に出向き、三味線が出来る過程を見ていくうちに少しずつ「三味線を習いたい」と云う気持ちになりました。同時に出来上がるのも楽しみになりました。

「たいへんお待たせしました。三味線が出来上がりました」と連絡があったのは、初めてお店を訪ねてから3年もの月日が流れていました。

その頃の私はカルチャースクールの体験コースを覗いたり、ライブを見に行ったり、何処かで'津軽三味線の先生'と聞いたら、見学にいったり本屋さんで'教本集'を買って独学で練習していましたが、まだ先生について習ってはいませんでした。

三味線を届けていただく日の打ち合わせをしたあと、
ご主人が言い淀みながらも、
「私が言うのもなんですが…素晴らしい三味線が出来ました!」
「そうですか…嬉しいです。」
ご主人の三味線は素晴らしいと聞いていたので、改めて云われると、なんと返事をしていいのか少し戸惑っていると、
「イヤーホントにこんな事は初めてです。予想以上に良い三味線になって私も嬉しくなっちゃいましてね!つい言ってしまいました。」
「そうでしたか、待っていた甲斐があります。楽しみです!」
初心者の私の三味線をこんなにも大事に作って下さっていたのだと思うと、嬉しくなりました。

そんなやり取りをした数日後、

まだ、届けていただく予定日には早い日にご主人から電話がありました。
「日高さんの三味線の事で大変な事がおきて!…少しお話しが…、」
ただ事ではなさそうな神妙な口調に、
「どうしたのですか?!」

「お届けする準備の為に、三味線をいっ時、棚に立て掛けていたら…その時に!

偶然 '宝島社'の編集者の人達とイラストレーターのロドニーさんが通りかかり、
「あまりに美しい三味線に引き寄せられました!」と、お店に入ってこられたのです。

ロドニーさん自身も津軽三味線を習っているので、日高さんの三味線を買いたいと云われましたが、勿論 お断りしました。
すると、
今度ロドニーさんが出版する本に掲載したいので、この三味線で撮影したいと云うのですが、ご了承いただけますか?」
「え!あの世界的なイラストレーターのロドニーさんご本人が来たのですか?!
(Rodney Greenblat サンダーバニー 他)
分かりました。」

その日の夕方に無事に撮影が終わったと連絡がありました。

その後、
予定した日に、三味線を届けに来たご主人が、
「先生に、ロドニーさんの本の話をしましたら、
'日高さんは幸運を呼ぶ人なんだよ'と言っていましたよ!」

…そういえば大竹先生も弥栄子先生もそんなことを言ってたかも?!

「久美ちゃんから連絡があると、何か良い知らせがくるんだよ」

当然、私にはそのような自覚は無いのですが…でも!
この三味線は私にとって魔法の杖?ならずとも魔法の三味線です!
津軽三味線を根気強く勧めて下さった天国の先生方や三味線が出来上がるのを楽しみにしていた亡き父の深い思いが、この'美しい三味線'になり、それからの私を思いもよらない世界へと引っ張って行ってくれたのです。

三味線が届いてから数日後、
教本集を買って半年あまり。
独学で練習していた私は譜面を見ながら曲が弾けるようになっていましたが、いざ録音して聞いてみると付録で付いていたCDのお手本と同じ曲とは思えない、私のできの悪さに落胆して、教本集の著者の先生に連絡をしました。

「独学で覚えた'北の大地'ですが、私がCDのお手本と同じ早さで弾いても違う曲に聞こえます!? 本当に同じ譜面ですか?!」
「そうですよ。一緒に弾いてみましょう…
(三味線を一緒に演奏)
うん、大丈夫合ってますよ。」
「え?!本当ですか?!
下手でも同じ曲と分かるならともかく、同じ曲とは思えません!見えないプロの技があるのですか?!」
「それは、練習しかありません」

そして私は、
教本集著者の先生にお願いして、お稽古を付けていただく事にしました。

次の稽古の日、
「今も良い音ですが、こちらの駒(コマ、糸の振動を皮に伝える部品)が合うと思うので、替えてみましょう…
(先生が音を確認をして)
アレ!
すごい良い音になりましたね!この駒にしましょう」
驚く程、三味線の音は良くなりました。
音の良さは、飽きっぽい私を魔法のように練習に惹き付けてくれました。私は三味線に没頭しました。それは楽しく、ゲーム好きの子供がゲームに夢中になるように。
この'美しい三味線'をケースに片付ける時間は殆どありませんでした。


2020年5月 私は青森の大会
「津軽三味線日本一決定戦」
(受付番号026)に、初心者ながらに'この三味線'を武器に、エントリーしていました。

ゴールデンウィークということもあり、数人の友人が応援に来て、大会後に津軽三味線を聴かせる居酒屋に繰り出す予定でした。どうやら其処で私に三味線を弾かそうと企んでいたらしいのです。
友人曰く、
「大会で最下位だった時のアナウンスも用意していたから大丈夫」
と、楽しみにしていましたが、

残念な事に、
新型コロナウイルスの為、
2020年の各地の大会は、全て中止になりました。
悪友の企みも中止です。

同時期'私の三味線'も(心ない残念な事があって)弾くと雑音がジリンジリンと入るおもちゃのタンバリンのようになってしまいました。

'津軽じょんがら節'の定義さえわからない私が作曲して、デモテープを作ると「流れも良いし面白い曲なのでこの方向で仕上げて」と、東京大会を目指す事が出来たのも'この三味線'だからです。
その三味線が、
おもちゃのタンバリンのような音に…!!
人間ドックに預けたら'植物人間状態'になって帰ってきた、
そんな気持ちです。

気のせいだと、祈りながら持ち帰り、震えながら音を確認し、糸を替えれば大丈夫と自分に言い聞かせ泣きながら震える手で新しい糸にかえました。

音はもどりませんでした。
心のそこから哀しみ泣きました。
5月の青森大会の出場をこの時点で諦めました。

その数日後に新型コロナウイルスの為「青森大会」の中止が発表されました。

助けて!
《この文章は、後半を13回も書き直しています。当時の震える悲しい気持ちを思い出したら、それを書かずにはいられなくなりました!
ずっと泣いていたら10sも痩せてしまいました。

これを読んでいる皆様 
寄り道の多い文章にお付き合い下さいまして感謝いたします。今は立ち止まっている私が前を向いて歩みだす為に書いてしまいました。
ありがとうございます。

それに
もしかしたら、
コロナ禍の街中に私が三味線を持って跳んで行かないように、天国の大竹先生方や父が三味線を眠らせたのかもしれません。》


そうそう、
イラストレーターのロドニーさんですが、
三味線が届いてから数ヶ月した頃、宝島社から出版したロドニーさんの(お店の紹介と私の三味線が掲載された)本とイラスト入りバッグが届きました。




 ぶっ通しで2〜3時間!

写真提供:大竹あゆみさん
「もう一度弾いてごらん」

先生のベッドサイドでいつも私は《三味線の練習》をしていました。独りでの練習とは違って
張し冷や汗を流しながらでしたが、充実しアッという間の時間です。
練習の終わりの合図はいつも
先生が…
「うん 良いんじやない あゆみはどう思う?」と、
いつもは、ベッドとサイドボードの隙間で体育座りをして一緒に聞いている、お嬢さんに問いかけ
「良いと思います、どこで弾いても大丈夫です。」

先生とあゆみさんが「大丈夫」と、云ってくださると、私はすごく自信が持てて、
「人前で演奏ができる」と思える私のバロメーターでした。

その後 三味線を披露する機会に 私は次々と恵まれました。

その度に、先生の所に跳んでいき演奏する曲目の確認は勿論のこと衣装やメイクまでの相談をしていました。


津軽三味線を始めてからずっと
大竹省二先生の前で弾く為に一曲覚える度スタジオに跳んでいきました。
そんな《三味線の練習》をして1ヶ月が過ぎたころ、
「今度のスタジオ食事会は、日高君のサプライズ三味線披露にしよう!」と、先生が提案しました。
その「サプライズ披露」後は、
先生のお誕生日会を含め、スタジオの恒例行事や大竹先生を慕っての懇親会 等々、
その全てに三味線ライブが付いて私の「三味線ライブ付き〇〇会」になりました。

 その時々によって顔触れは代わりましたが当然、先生のお客様は皆、各業界で第一線で活躍されている方ばかりです…
私がオロオロ怖じ気づいていると、
「いつものように弾けば大丈夫だよ」と、先生が云い、
華奢に見えるらしい私の外見と演奏とのギャップに、
「今日も皆さんびっくりするとおもいますよ!」いたずらっ子のような笑顔であゆみさんに勇気づけられました。
そして、
皆さんが帰られた後は、
「いつも先生の思惑通りですね!」と楽しそうに私に耳打ちするのです。

このような恵まれた場所があったからこそ私は短い時間で、
''難しい''と云われる津軽三味線を披露することが出来て、
'先生の思惑'を私なりに工夫して楽しめるようになれたのだと思います。



写真提供:大竹あゆみさん


大竹省二(写真家)先生とは、
女優デビューのプロフィール写真から始まり、カレンダーやショー.イベント等、
大竹先生の企画制作のお仕事のメンバーとして'女優 日高久美子'は、いつも恵まれた立場でご一緒させて頂きました。
90歳を過ぎても先生はとてもお元気で忙しいく仕事されていました。
私が三味線を始めるすこし前から、歩くのがたいへんになり
長年お仕事をされている親しい方々は先生の指示や打ち合わせ等、
「ベッドサイドが会議室」
になっていました。

初めてのプロフィール
                                                            撮影:大竹省二先生



津軽三味線を習って一か月程…初めて習った曲が弾けるようになった時に、
兼ねてより(☆2年も以上も前に!!注文していた三味線が届き☆
(「えっ?? 2年以上?」
その理由は…☆
_φ( ̄ー ̄ )  (次回詳細に)
何故、私が津軽三味線を始められたのか?に、繋がります☆ (次回詳細に)
やっと、待ちに待った三味線が届いた嬉しさのあまり
この動画にアップ!しました。
この頃は
まだ、この一曲しか弾けない私でしたが
この三味線と、この一曲(重ね重ねですが、まだ一曲だけしか弾けないので)
アンコールにお応え出来なかったことが!私はとても残念でした。
お声がかかったライブには
'舞台衣装'とし考えた精一杯の装いをして…(☆衣装メイクのタイトルはギャップ)(≧∇≦)積極的に出演していました。
勿論!ボランティアですよ
…冷静に考えてみれば「怖いもの知らず」ですね
(//∇//)

☆何故津軽三味線を始めるにいたったのか…。
そして、
☆衣装のギャップの意味…。
この、お話しは改めて掲載させていただきます。

動画掲載から5年…
一年間のブランクを経て、三味線を再び始めました。
今、私は
「素敵な出会い」が重なり
5年前に習っていた頃には、想像も出来なかった扉が開きました。(H30年5月〜)
「この上のない素晴らしい環境」で「津軽三味線」を再スタートしています。

次の三味線動画は…オリンピックも決まったことですし、日本の「和」の良さを(微力ながら)アピールです!
三味線の楽しさもね!
お楽しみに〜